日本の学校たちは、"集合"たちについて語るが、それらはセットたちなのか、それともコレクションたちなのか?
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この記事の目次
- 開始コンテキスト
- ターゲットコンテキスト
- オリエンテーション
- 本体
- 1: "集合"(日本の学校たちで使われる)は何を意味するのか?
- 2: 注意: いくつか複数のセット理論たちがある
- 3: 'セット'と'コレクション'は、どのように、違うことたちを意味するに至ったのか?
- 4: 実のところ、コレクション一般は、メンバーのプロパティでは定義されない
- 5: "集合"は'コレクション'を意味する
- 6: 'コレクション'という概念は生き続けている
- 7: 数学は、厳密に言って、セット理論の上に建てられているわけではない
開始コンテキスト
- 読者は、本サイトの背景を知っている。
ターゲットコンテキスト
- 読者は、セットたちとコレクションたちの区別を知る。
オリエンテーション
真実たちの導管となることで人類の恩人となることについての記事がある。
セットの定義とラッセルの"パラドックス"についての記事がある。
本体
1: "集合"(日本の学校たちで使われる)は何を意味するのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
日本の学校たちは、"集合"たちについて語る。
例えば、彼らは、何らか3つのりんごたちの"集合"、あるクラスの生徒たちの"集合"、等々について考える。
Special-Student-7-Rebutter
"集合"とは何だ、厳密には?
Special-Student-7-Hypothesizer
任意の"集合"は、いくつかのオブジェクトたちの任意のコレクションであって、そのメンバーシップが曖昧でないものだ。
Special-Student-7-Rebutter
メンバーシップが曖昧なコレクションなどというものがあるのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
あるとは思わない: 'コレクション'の概念そのものが、メンバーシップが曖昧でないという要件を含んでいる; その修飾は単に強調のためだ。
Special-Student-7-Rebutter
それでは、"集合"は、英語における'collection'に他ならないのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
私にはそう推測するしかない、なぜなら、日本のテキストブックたちは、"集合"が英語で何と呼ばれるか言わない、しかし、辞書たちは、通常、数学における"集合"は英語における"set"であるt言う。
Special-Student-7-Rebutter
しかし、'セット'と'コレクション'は、数学において2つの異なるものたちだ。
2: 注意: いくつか複数のセット理論たちがある
Special-Student-7-Hypothesizer
注意として、いくつか複数のセット理論たちがあり、各理論において'セット'が何であるかは理論に依存する。
Special-Student-7-Rebutter
とても紛らわしい; それら理論たちは異なる名称たちを使えないのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
それはとても紛らわしい、しかし、各理論が存在する理由は、それが他の理論たちを不満足であるとみなしていることにあるので、各理論が、"私たちが呼ぶ'セット'が本当の'セット'だ!"と言い、各理論が"セット"を使用する。
Special-Student-7-Rebutter
理解するところもある、しかし...
Special-Student-7-Hypothesizer
いずれにせよ、議論の余地はあるが、最も人気のあるものはZFCセット理論であり、私たちはこれ以降、単に"セット理論"と言えば、ZFCセット理論を意味し、単に"セット"と言えば、ZFCセット理論による'セット'を意味する。
注意として、私たちがここで言おうとすることたちは、特に正典というわけではない; 納得がいく議論を私たちは見たことがないので、私たちが納得できる1つの仮説を提示しようとしている。何人も、単に誰か(それが誰であろうと)がそう言ってるとか、単に多くの人々がそう言ってるとかというだけの理由で、何かを受け入れるべきではない; 自分自身でチェックしなさい、当該仮説が境界なく整合しているかを、それが、真実たちに近づく唯一の方法である。
3: 'セット'と'コレクション'は、どのように、違うことたちを意味するに至ったのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
ほとんどのテキストブックたちは、ラッセルの"パラドックス"をなぜ、セット理論が現状のようである必要の理由として挙げる、しかし、それら議論たちは少しも納得がいくものではない、少なくとも私たちには。
Special-Student-7-Rebutter
それら議論たちはどんなものなのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
歴史的に、いわゆる"ナイーブなセット理論"と呼ばれるものがあった、それは、いわゆる"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"と呼ばれるものに基づいている、それ(公理)は、"メンバーの正確に指定された任意のプロパティは、あるセットを定義するのに使用できる。"というもの。
そのうち、ラッセルの"パラドックス"がやってきて、"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"を反駁し、したがって、"ナイーブなセット理論"を反駁した。
そこで、今では、ZFCセット理論は、空集合と空集合から構成されたものたちのみを "セット"として認めている。
したがって、何らか2つの電子たちのコレクションは"セット"であるとは認められない、なぜなら、当該コレクションは空集合から構成されていない。
Special-Student-7-Rebutter
推論に大きなギャップがあるように思われる: なぜ、当該2電子たちのコレクションは"セット"でないのか、単に、"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"が反駁されたからといって?
Special-Student-7-Hypothesizer
私は納得がいく説明を見たことがない。
実際、なぜ、"メンバーの正確に指定された任意のプロパティで、メンバーシップを曖昧さ無く決定するものは、あるセットを定義するのに使用できる。"という修正された公理を私たちは持つことにしないのか?
Special-Student-7-Rebutter
ラッセルの"パラドックス"が言っているのは、単に"メンバーの正確に指定されたプロパティ"だけではメンバーシップの非曖昧さを保証しないということであって、私たちはなぜ、非曖昧さを追加の要件として追加しないのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
なぜなのか私は納得がいく議論を見たことがない; 単に、それをチェックするのは一般に容易でなく、彼らは、チェックするという面倒なくセットたちを定義できる方法が欲しいというだけのことに思われる。
Special-Student-7-Rebutter
えーと、それは、謙虚に真実たちに近寄っていくという態度なのか?それは、人間たちにとって都合の悪いものたちは何でも無視するという態度に思われる。
Special-Student-7-Hypothesizer
非曖昧さを容易にチェックできるか否かは、人間にとって都合が良いか否かの問題に過ぎず、ZFCセット理論のエッセンスは、それは、"コレクション"の概念をカバーすることを断念して、人間たちに都合の良い種類のコレクションたちのみを取り扱うように縮退するよう決定したということ、であり、それらが今や"セットたち"と呼ばれる、それが私の理解だ。
実のところ、そういう制限された種類のコレクションたちについての理論を持つことが悪いとは、私は全然言わない、しかし、当該理論が本当に何をやっているのかを私たちは意識する必要がある。
Special-Student-7-Rebutter
いくつかの混同を避けなければならない: "ナイーブなセット理論"は"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"を持った理論のことを意味するのであって、'コレクション'という概念を意味するのではない; ZFCセット理論は、何らかの2つの電子たちのコレクションのようなほとんどのコレクションたちを除外するが、それは、2つの電子たちのコレクションが不適切だからではなく、当該セット理論が縮退したからである。
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混同たちの主要原因は、ZFCセット理論が"セット"という用語を使い続けることである、'セット'という概念は、'コレクション'に等しいものから'人間たちに都合の良いコレクション'へ縮退したのであるが。
4: 実のところ、コレクション一般は、メンバーのプロパティでは定義されない
Special-Student-7-Hypothesizer
実のところ、私の考えでは、"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"は、ラッセルの"パラドックス"はよりももっと根本的に問題である。
問題は、それは、任意のコレクションをメンバーのあるプロパティによって定義しようとすることだ。
例えば、私がある袋の中へ入れるいくつかのボールたちのコレクションのことを考えよう。
私が当該袋の中へあるボールを入れる理由は、単に私のまさぐる手が偶然そのボールに触れたというだけのことであり、そのボールが赤であるとか青であるとかなんとかの理由ではない。
Special-Student-7-Rebutter
当該コレクションは、赤であるとかなんとかのような、ボールのプロパティによって定義されたのではない、と君は言っているのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
そう。
Special-Student-7-Rebutter
君のコレクションは、通常、当該ボールたちを列挙することで定義される、当該コレクションは有限であるから: 君は、まさぐることで無限数のボールたちを袋の中へ入れることはできない。
Special-Student-7-Hypothesizer
そう、コレクションが有限である時は、その逃げ道がある。
しかし、もしも、コレクションが無限だったらどうか?
Special-Student-7-Rebutter
どのように君は、無限コレクションを、メンバーのプロパティによることなく定義するのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
もしも、相対性理論を無視すれば、宇宙に対して、ある\(\mathbb{R}^3\)デカルト座標系を取り、各有理座標ポイントの周りに半径1オープンボール(開球)を取ろう。すると、ある時点における、各オープンボール(開球)内の電子たちの数たち、それは、自然数たちセットのサブコレクションである、が私の無限コレクションである。
Special-Student-7-Rebutter
当該コレクションは、偶数であるとかなにかの、自然数のプロパティによって定義されているのではない、と言っているのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
そう。
Special-Student-7-Rebutter
それは、本当に無限だとは思えないな、宇宙に有限数の電子たちしかないと仮定すれば。
Special-Student-7-Hypothesizer
それでは、中心座標と電子たちの数のペア、((1.2, 3.4, 5.6), 7)のように、を取ろう。
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それでは、確かにコレクションは無限だ。
相対性理論を無視することが許されなかったらどうだ?
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時空マニフォールド(多様体)に対して、あるチャートを取ろう、当該チャートのドメイン(定義域)は\(\mathbb{R}^4\)へホメオモーフィックである、そして、\(\mathbb{R}^4\)に対して、同じことをしよう。
Special-Student-7-Rebutter
すると、そうしたコレクションたちは現実に存在するのに、"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"はそうしたコレクションたちを捕まえられない、と君は言っているのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
実のところ、それは、"リストリクテッド(制限された)コンプリヘンション(包含)公理"の問題でもある、それは、実際、"リストリクテッド(制限された)コンプリヘンション(包含)公理"は既にセットであると知られているあるコレクションの要素たちのみのことを考えるという点を除けば、"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"と同じだ。
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"当該オープンボール(開球)内の電子たちの数"というのは、'メンバーのプロパティ'ではないのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
少なくとも、ZFCセット理論は、そういうプロパティは認めない: "リストリクテッド(制限された)コンプリヘンション(包含)公理"は、プロパティは、\(\in\)のような指定されたオペレーターたちおよび既にセットであると知られているコレクションたちだけを許すあるフォーミュラとして表現されることを要求する。
Special-Student-7-Rebutter
"ナイーブなコンプリヘンション(包含)公理"はそういうプロパティを認めていたのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
かもしれない、しかし、"メンバーのプロパティ"という用語のそういう使用法はとても有害だろう(私であれば、こじつけが過ぎる解釈だと言う)、私の意見では。"当該オープンボール(開球)内の電子たちの数"というのは、当該自然数のプロパティではなく、宇宙のプロパティだ: つまり、"当該オープンボール(開球)内の電子たちの数"は、当該自然数の性質(偶数であるとか、素数であるとか、なんかのような)について語っているのではなく、宇宙の性質について語っているのだ。
Special-Student-7-Rebutter
いずれにせよ、"リストリクテッド(制限された)コンプリヘンション(包含)公理"は君のコレクションを認めない。
Special-Student-7-Hypothesizer
したがって、当該コレクションは現実の中にあるのに、ZFCセット理論は、当該コレクションに取り組むことを拒否しているわけだ。
5: "集合"は'コレクション'を意味する
Special-Student-7-Hypothesizer
したがって、日本のテキストブックたち内の"集合"は'コレクション'を意味するのであって、 "セット"をではない。
日本の生徒が後に、ラッセルの"パラドックス"について聞き、'何らか2つの電子たちの"セット"'が反駁されるのを聞く時、当該2電子たちの"集合"は全然反駁されていない、なぜなら、当該2電子たちのコレクションは全然反駁されていない。
それに、生徒が後に、"ナイーブなセット理論"が不適切だと聞く時、"集合"という概念('コレクション'という概念)は全然不適切ではない、なぜなら、'コレクション'という概念はナイーブなコンプリヘンション(包含)公理に基づいていない。
6: 'コレクション'という概念は生き続けている
Special-Student-7-Hypothesizer
'コレクション'という概念はいまだ妥当であり、事実、数学内で使用されている。
典型的な例として、カテゴリー理論において、カテゴリー一般は、セットではなくコレクションである。例えば、全てのセットたちのカテゴリー\(Set\)はコレクションであるがセットではない。
Special-Student-7-Rebutter
\(Set\)は広く"クラス"であると呼ばれている。
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そう、'クラス'は'セット'より広く'コレクション'より狭い概念である、しかし、いずれにせよ、クラスは、一般にセットでない。
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'クラス'はどのように'コレクション'より狭いのか?
Special-Student-7-Hypothesizer
粗く言って、任意のクラスは、やはり空集合から構成され、やはりあるフォーミュラによる、メンバーのプロパティによって定義される。
いずれにせよ、何かが、単にZFCセット理論において"セット"でないというだけの理由で不適切だと言うのであれば、カテゴリー理論全体は不適切だということになろう。
また、"コレクション"は、いまだに多くのテキストブックたち内で頻繁に使用されている: ある読者は、なぜ"コレクション"が"セット"の代わりに使われているのかといぶかるかもしれないが、その理由は、言及されているオブジェクトは、ZFCセット理論によれば"セット"でないか必ずしも"セット"ではないことで、もしも、'コレクション'が不適切であるならば、そうしたテキストブックたちは不適切であることのなろう、しかし、そうではない。
7: 数学は、厳密に言って、セット理論の上に建てられているわけではない
Special-Student-7-Hypothesizer
かなり広まっている誤解は、"数学全体はセット理論の上に建てられている。"というものだ。
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それは、ナイーブなセット理論がやろうとした大志だった。
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しかし、その試みは失敗した(主にラッセルの"パラドックス"によって)、そして、セット理論は一般のコレクションたちに対処することを放棄し、とても限られた種類のコレクションたちについての理論であるように縮退したので、大志は放棄された。
確かに、セット理論は、それでも数学のとても重要な部分であるが、厳密に言って、数学全体の基盤というわけではない。
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1つの証拠は、"コレクション"は今でも多くの数学テキストブックたち内で使われていること。