2025年12月28日日曜日

7: 相対的で不確定なのは、測定たちであって、リアリティ(現実)ではない

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同じ長さが、1.00 m、3.28 ft、等と測定される、だから何?

話題


About: 小学校数学

この記事の目次


開始コンテキスト



ターゲットコンテキスト



  • 読者は、リアリティ(現実)と測定たち間の関係を知る。

オリエンテーション


真実たちの導管になることによってヒューマニティーの庇護者になることについての記事があります。


本体


1: '測定'は、数学をリアリティ(現実)に適用するためのある基礎である


Special-Student-7-Hypothesizer
ある日本の小学校数学カリキュラムを見るところ、子供たちは、最初に、自然数たちと、それらの加法、減法、乗法を学び、次に、それらの除法を、分数たちおよび小数たちと共に学ぶ、しかし、そのプロセスに混ざり合って、子供たちは測定たちを学ぶ。

Special-Student-7-Rebutter
理論からすれば、最初に、コレクションたち(そして、もしかしたら、セット(集合)たち)、自然数たちセット(集合)、整数たちセット(集合)、有理数たちセット(集合)、実数たちセット(集合)を学ぶのが、論理的だと思われるが、そのカリキュラムはそのように進まないわけだ。

Special-Student-7-Hypothesizer
実のところ、子供たちは、負数たちを中学校まで学ばないし、私が今見ている小学校・中学校・高校に対するカリキュラムから判断する限り、子供たちは、コレクションを高校まで学ばないらしい。

Special-Student-7-Rebutter
本当か?子供たちはどうやって、コレクションの概念無しにファンクション(関数)たちや確率たちを学べるのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
私には分からない; 私はこれらカリキュラムだけを見ていてテキストを見ていない、したがって、コレクションの概念が、どこかであるトピック内に混ざっておざなりに導入されているのかもしれない。

いずれにせよ、私が言いたかったのは、'測定'は、数学教育の最初のステージで導入されているということ。

Special-Student-7-Rebutter
えーと、'測定'は、数学の不可欠の部分だとは思われない、というか、'測定'は本当に数学の一部なのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
私たちが話しているのは、数学におけるメジャー(測度)理論(それは、あるセット(集合)の何らかのサブセット(部分集合)たちを測定するという問題である)のことではない、ここでの'測定'は、リアリティ(現実)を測定する(それが意味するのは、リアリティ(現実)にある数字を割り当てること)という問題である。

Special-Student-7-Rebutter
ここでの'測定'は、純粋数学の部分とは思われないが、数学をリアリティ(現実)に適用するある基礎である。

Special-Student-7-Hypothesizer
'測定'がなぜ最初のステージで学ばれるかという理由は、学校数学は、純粋数学を教えるように意図されておらず、応用数学を教えるように意図されていること。

子供たちは、リンゴたちを数える(数えるのは、一種の測定である)ために自然数たちを学び、あるデスクのある辺の長さを測定するために小数たちを学ぶ。

したがって、学校数学は、純粋数学の構成の論理的順序を追わず、何らかの危急な応用たちに飛びつき、それら応用たちに必要な数学的実体たちを便宜的に取り上げる。


2: 測定とは、リアリティ(現実)のある側面をある数学的実体によって代表させることである


Special-Student-7-Hypothesizer
一般に、'測定'とは、リアリティ(現実)のある側面をある数学的実体(典型的には、ある数字)によって代表させることである。

例えば、ある箱がいくつかのリンゴたちを格納しているリアリティ(現実)に対して、ある測定は5を与える。

私が"ある側面"と言った理由は、リアリティ(現実)には多くの箱たちおよび多くの非箱たちがあり、当該測定は、その特定の箱だけを見て、その箱内にある物たちの量だけに注目したことである: 私たちは、リアリティ(現実)全体を何かで厳密に代表させることはできない。

したがって、何らかの定規たちで長さたちを測定したり何らかの秤たちで重さたちを測定するだけでなく、数えるのも測定である。


3: ある長さを測定しよう


Special-Student-7-Hypothesizer
あるデスクのある辺の長さを測定しよう。

Special-Student-7-Rebutter
私たちはそうする必要があるのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
ああ、それは、単なる口答えに聞こえるかもしれないが、本当に重要な質問である; 確かに、私たちはその長さを測定する必要はない、少なくとも、そのデスクに関する限りは: そのデスクは、測定されずとも存在しており、もっと一般に、リアリティ(現実)は、測定されずとも存在している。私たちがその長さを測定するのは、単に、それが私たちの便宜に適っているからである。

Special-Student-7-Rebutter
私がその点を確認しているのは、"測定たちの他にリアリティ(現実)などない。"と言っている人々がいるから。

Special-Student-7-Hypothesizer
その主張によれば、そのデスクは、その人間が測定する前には存在せず、その人間が測定した瞬間にリアリティ(現実)内に飛び出て、さらには、その人間が測定をやめた瞬間にリアリティ(現実)から消え失せた、...、それは、真剣な話なのか?

Special-Student-7-Rebutter
それらの人々は頑強に主張している。

Special-Student-7-Hypothesizer
... それについては、後で話そう。

とにかく、その長さを測定するのに、私たちはある定規を使う。

Special-Student-7-Rebutter
もしくは、テープメジャーを。

Special-Student-7-Hypothesizer
そう、しかし、それはここでの課題ではない、したがって、それを定規と呼ぼう。

ある課題は、その定規は、メートル定規、ヤード定規、もしくは、任意の他の単位による定規かもしれないということ。

それにしたがって、測定は、0.91 (m)、1.00 (yard)、もしくは、他のものかもしれない。

Special-Student-7-Rebutter
ある誤差付きで。

Special-Student-7-Hypothesizer
そう、ある誤差付きで、なぜなら、その定規はそれほど正確でなく(製造はそれほど完全でない)、いくらか変形している、温度、湿度、重力、等によって、あなたの視力はそれほど正確でない、等々。

生徒たちは、任意の測定において、あり得る誤差をはっきりさせることが肝要であることを学ぶ。

いずれにせよ、当該測定は、あなたが選択する単位に依存する。

したがって、測定たちは、単位たちに関して相対的である。

しかし、それは、リアリティ(現実)が相対的であることを意味しない。

実のところ、もしも、あなたがメートルからヤードに移行すれば、測定は変わったが、当該長さは変わっていない、単にあなたがある奇想的な単位を選んだという理由によって。

Special-Student-7-Rebutter
誤解の種は、'長さ'の定義である。

Special-Student-7-Hypothesizer
議論を単純化するために、本セクションを通じて相対性理論を忘れよう。

すると、私が'長さ'で意味することは、当該2個のポイントたちが、リアリティ(現実)において、空間内にてどれぐらい離れているかである。

単にあなたがあるヤード定規を使ったからという理由で、当該2個のポイントたちがより少なく離れることにはならなかった。

実のところ、もしも、あなたが単にヤード定規を使ったというだけの理由で当該デスクは縮んだとあなたが思ったとしたら、あなたは狂人であろう; もしくは、ある男が愛する人から1,000.000 km離れて住んでいて、もしも、彼が、ある単位(多分、"慕情"と呼ばれる)を採用して、それによって、愛する人から0.000,001慕情離れることになれば、愛する人への距離が縮む、と考えるならば、彼は、ロマンチシストであろう。

同様に、測定たちが何らかの誤差たちを含むことは、リアリティ(現実)が誤差たちを持つことを意味しない。

もしも、あなたが、単に定規の製造が完全でなくあなたの視力が正確でないという理由で、リアリティ(現実)が誤差を含む、と考えたら、あなたは、狂人であり、それに加えて、自己中心的であろう。

Special-Student-7-Rebutter
私が"誤解の種"について話したのは、もしも、誰かが"長さ"によって'長さの測定'を意味したならば、"長さたち"は、単位たちに関して相対的だということになるだろう。

Special-Student-7-Hypothesizer
私たちは、"長さ"によって、'当該2個のポイントたちが、リアリティ(現実)において、空間内にてどれぐらい離れているか'を意味し、'長さの測定'を意味する時には、私たちは、"長さの測定"を使う。

実のところ、'長さの測定'を"長さ"と呼ぶのは、ずさんな省略であり、一部の人々はそういうずさんな省略たちを使うのを控えることを拒み、それが混乱たちを引き起こす。

あるデスクのある辺の長さのある測定が1.00 mであり、別のデスクのある辺の長さのある測定が1.00 yardである時、私たちは、"それら2つのデスクたちは同じ長さを持つ。"とは言わない。


4: しかし、相対性理論はその状況をどう変えるのか?


Special-Student-7-Rebutter
これまでのところ、非相対性理論的ケースたちについては、良い、しかし、相対性理論はその状況をどう変えるのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
相対性理論は、"リアリティ(現実)が相対的である"とは全く言わない、そう言っていると、かなり広く誤解されているが。

Special-Student-7-Rebutter
相対性理論は、"当該デスクの当該辺の長さ"について何を言うのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
相対性理論は、この宇宙は4-次元時空である、という。

注意として、当該時空そのものは、いかなる形でも相対的でない。

しかし、ある"空間"について話し始める時、その"空間"とは何だ?

Special-Student-7-Rebutter
その"空間"は、ある3-次元空間を意味するらしい。

Special-Student-7-Hypothesizer
ある3-次元"空間"について話す時、あなたは、当該4-次元時空のある断面を意味している。

しかし、4-次元時空の無限に多くの断面たちをあなたは選ぶことができる。

したがって、その"空間"はあなたの選択に依存する、それが意味するのは、"空間"たちはあなたの選択たちに関して相対的である、ということ。

もしも、4-次元時空を想像することが困難であるならば、時空をある2-次元平面と想像してもよい、比喩として。

すると、ある"空間"は、当該平面上のあなたの選択によるある直線になる。

当該デスクの当該辺の2端たちは2つの"世界線"たちと呼ばれるものたちを時空内に描き、あなたがある"空間"を選ぶ時、それら世界線たちの各々は当該"空間"とあるポイントで交わり、あなたが、"当該2個のポイントたちが、リアリティ(現実)において、空間内にてどれぐらい離れているか"と言うとき、"当該2ポイントたち"は、当該交点たちである。

当該交点たちは、あなたの当該"空間"の選択に依存するので、長さは、あなたの"空間"の選択に依存する、それが、相対性理論が言うことである。

Special-Student-7-Rebutter
あなたがどんな"空間"を選ぼうが、それは、リアリティ(現実)を全然変えない、それは、長さの単位を選ぶことがリアリティ(現実)を変えないのと平行的な話である。

Special-Student-7-Hypothesizer
'ある"空間"を選ぶ'と言うのは、典型的には、ある3-次元座標系を選ぶことに関係している: ある"時刻"における3-次元座標系は、実のところ、4-次元時空のある断面であり、それが、"空間"と呼ばれ、4-次元時空は、異なる"時刻"たちを持つそうした平行な"空間"たちにスライスされる。

そして、何らかの2つの3-次元座標系たちで互いに対して動いているものたちは、4-次元時空を何らか別の方向たちにスライスしたのである。

Special-Student-7-Rebutter
4-次元のリアリティ(現実)に対して3-次元座標系を採用するというのは問題ではないのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
実のところ、それは誤解を生むものである、絶対的に悪いというのでなかったとして: 人々は"空間"が"時刻"を通して展開していると想像しがちだが、あなたの"空間"はあなたの選択に過ぎず、客観的な存在ではない。

これで、あなたは理解するはずだ、2つの座標系で互いに対して動いているものたちがなぜ、当該デスクの当該辺の長さを異なるように測定するかを。

2-次元時空比喩においては、当該デスクの当該辺の2端たちは、当該2-次元平面上に互いに平行な世界線たちを描く(当該平面をx-y平面とし、当該2つの世界線たちをx = 1およびx = 2としよう )、そして、第1の座標系はy = t直線たちの群れであり、第2の座標系はy = x + t'直線たちの群れである。

すると、第1の座標系は、t = 0において、当該デスクの当該辺の2つの端たちを(1, 0)および(2, 0)に見、第2座標系は、t' = 0において、当該デスクの当該辺の2つの端たちを(1, 1)および(2, 2)に見る。

したがって、第1座標系は、(1, 0)と(2, 0)間の距離について話し、第2座標系は、(1, 1)と(2, 2)間の距離について話し、それらが異なる測定たちを報告するのはミステリアスなことではない、なぜなら、それら2つの座標系たちは異なるポイントたちペアたちについて話している。

Special-Student-7-Rebutter
警告として、当該4-次元時空は、ローレンシアンメトリック(計量)を持っている、ユークリディアンメトリック(計量)ではなく。

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そう、"ユークリディアンメトリック(計量)"は、\((x_1, x_2, x_3, x_4)\)と\((x'_1, x'_2, x'_3, x'_4)\)の間の距離が\(\sqrt{(x'_1 - x_1)^2 + ... + (x'_4 - x_4)^2}\)であることを意味しているが、"ローレンシアンメトリック(計量)はそう言わない(それが厳密にどう言うかは、私たちは議論しない)。

したがって、2-次元比喩において、(1, 0)と(2, 0)の間の距離は必ずしも1でなく、(1, 1)と(2, 2)の間の距離は必ずしも\(\sqrt{2}\)でない。

したがって、私たちは、"(1, 1)と(2, 2)の間の距離が(1, 0)と(2, 0)の間の距離より大きい"とは言っておらず、単に、それら2つの座標系たちが異なる測定たちを報告するのは自然であると言っている。

Special-Student-7-Rebutter
しかし、当該2-次元平面としてのリアリティ(現実)は、ある気の触れた人間がいかなる座標系たちを選んだかにも測定たちがそうした座標系たちに関していかなるものたちであるかにも関知しない。

Special-Student-7-Hypothesizer
異なる単位たちを持つ何らかの2つの定規たちが当該デスクを異なるように測定するのと同様に、何らか2つの定規たちで互いに対して動いているものたちは当該デスクを異なるように測定する、それは何のミステリーでもない: 異なる単位たちを持つ2つの定規たちが異なる定規たちであるのと全く同様に、互いに対して動いている2つの定規たちは異なる定規たちであり、異なる定規たちが異なるように測定するのは自然なことである。

実際、ある観測者(ある座標系)が地球に対して高速で飛び、あの2人の恋人たちの長さを1 cmと測定する、しかし、それが、あの可哀想なロマンチシストにとってどのような慰めになるのか?


5: リアリティ(現実)は不確定でない


Special-Student-7-Hypothesizer
別の広まった誤解として、"リアリティ(現実)は不確定である、ハイゼンベルク不確定性原理によって"、がある。

違う。

ハイゼンベルク不確定性原理は、オブザーバブル(可観測量)たちのいくつかのペアたちの各々の同時測定は不確定である、と主張している。

Special-Student-7-Rebutter
不確定なのは、何らかの測定たちであって、リアリティ(現実)ではない。

Special-Student-7-Hypothesizer
そして、ベルの不等式の破れが"リアリティ(現実)の不確定性"を証明したとの広い誤解もある。

違う。

ベルの不等式の破れが示唆しているのも、何らかの測定たちの不確定性である。

Special-Student-7-Rebutter
私たちは、リアリティ(現実)とその測定たちを区別する必要がある。

Special-Student-7-Hypothesizer
リアリティ(現実)は、測定されなくても存在し、測定される必要もない。

例えば、ビッグバンは、それが存在するために測定される必要があったのか?

ビッグバンは、ある人間がそれを測定するまで不確定だったのか?

Special-Student-7-Rebutter
ビッグバンは今は測定されたのか?

Special-Student-7-Hypothesizer
ビッグバンを完全に測定することは不可能であるように思われる、一部の人間たちがビッグバンの余波のあるごく小さな部分を測定したが。

それでは、ビッグバンは、その余波のあるごく小さな部分をある人間が測定するその瞬間に、少しだけ多く確定するのか、遡及的に?

Special-Student-7-Rebutter
実のところ、どの測定も、本当は、リアリティ(現実)内の測定を意図されたもののある余波である。

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ある人間がリアリティ(現実)のある側面を測定しようと試みる時、その人間は、当該側面の近くにある測定装置を置き、その測定装置と当該側面が何らか相互作用し、その相互作用の結果が測定である。

もしも、あなたが、当該側面は、当該相互作用のために遡及的に決定される、と主張するのであれば、それは、因果関係に違反している。

Special-Student-7-Rebutter
量子力学といえども、因果関係を否定していないと思ったが。

Special-Student-7-Hypothesizer
もしも、リアリティ(現実)を統べる法則たちが確率的であれば、その相互作用は確率的であり、測定は、当該側面の厳密な代表ではない。

ベルの不等式は、測定たちはリアリティ(現実)の厳密な代表たちであるという仮定に基づいており、その破れは、その仮定が間違っていることを示唆している。

注意として、ベルの不等式は、ミスター・アインシュタインの主張"神はサイコロ遊びをしない"という主張を支持する目的で導入され、自然に、リアリティ( 現実)の法則たちは決定的であると仮定された、それが含意するのは、相互作用たちとしての測定たちは決定的であるということで、それを、結果たちが否定したようだ。

"リアリティ(現実)は、それが測定されるまで決定されていない。"のような広まった誤表現たちがあるが、絶対的に違う、'測定たちは、それら測定たちが行なわれるまで決定されていない'が、より正確な表現のようだ、それは、自然である、なぜなら、任意の測定は物理的現象であり、リアリティ(現実)の法則たちが確率的である限り、測定の結果は、結果が発生するまで決定されていない。


6: 測定(メジャメント)たちはハラスメントたちである


Special-Student-7-Hypothesizer
ある寓話のことを考えてみよう。

あなた、地球人、はあるエイリアン種族に捕らえられた。

このエイリアン種族は、'恐怖'と'怒り'しか感じない、したがって、彼らは'恐怖'と'怒り'しか理解しない、実のところ、彼らは、'恐怖'と'怒り'以外のものがリアリティ(現実)内に存在するとは全く想像できない。

あなたは、'愛'、'憐れみ'、'喜び'、悲しみ'、等を感じる、だといいが。

エイリアン種族はあなたを測定する、それは、あなたが'恐怖'にあるか'怒り'にあるかを決定することである、このエイリアン種族にとっては、なぜなら、それが、存在すると彼らが想像できる全てである。

したがって、エイリアン種族はあなたにハラスメントを行ない、あなたが'恐怖'か'怒り'を示すように強いる、そして、あなたが'恐怖'または'怒り'を示した時、彼らは満足して言うのだ、"おお、このウジ虫は恐怖にあった!"。

彼らは、ベルの不等式を発明し、あなたの状態は、彼らがあなたを測定するまで決定されていなかったと結論する、そして、"我々がリアリティ(現実)を決定しているのだ!"とさえ主張しだす。

Special-Student-7-Rebutter
勿論、あなたは、彼らがあなたを測定する(ハラスメントを行なう)まで恐怖にはなかった。

Special-Student-7-Hypothesizer
このエイリアン種族の観念は、"恐怖にあるか怒りにあるか"だけであり、あなたが憐れみにある時、彼らは、"このウジ虫の状態は不確定である。"と宣言し、"リアリティ(現実)は、我々が測定するまで決定されていない。"と主張する。

Special-Student-7-Rebutter
彼らによる"状態"は、彼らのハラスメントによってもたらされた状態であり、確かに、"状態"はリアリティ(現実)内に現われない、彼らがハラスメントを行なうまで。

Special-Student-7-Hypothesizer
そして、あなたのハラスメントへの反応が確率的であれば、"状態"は、確かに決定されていなかった、彼らが測定を行なうまで。

しかし、それは、ハラスメントが行なわれる前にあなたが憐れみの絶対的に決定された状態になかったことを意味しない。

Special-Student-7-Rebutter
"位置"、"スピン"、等の人間による概念たちは、哀れなほど限られた人間の日常的経験たちから派生したものであり、そうした概念たちにおいてリアリティ(現実)を測定しようと試みている地球人たちは、'恐怖'か'怒り'かであなたを測定しようとしているあのエイリアン種族のようなものであることを、私たちは自覚するべきだ。


7: '科学的方法'について誤解がありませんか?


Special-Student-7-Hypothesizer
'科学的方法'について誤解がありませんか?

確かに、科学は測定たちを重視し要求する、なぜなら、何かを何の測定も無く単に恣意的に主張することは何の信憑性も与えない。

しかし、科学は、客観的リアリティ(現実)の存在の仮定にも基づいている。

実のところ、もしも、客観的リアリティ(現実)がなかったら、私たちは何を測定するのか?

私たちは客観的リアリティ(現実)の存在を仮定していたから、そのリアリティ(現実)を測定しようとしていた、そう私は思っていた。もしも、測定たちが相対的で不確定であるならば、それは私たちには好都合ではないが、私たちはそれを受け入れなければならず、客観的リアリティ(現実)に可能な限り近づこうと試みる、もしも、客観的リアリティ(現実)に到達しなくても、仮説たちを立てそれらを測定たちでチェックするという試行錯誤たちを通して、それが、科学的方法である、そう私は思っていた。

科学的方法は決して"測定たちの他にリアリティ(現実)などない。"ではない、そう私は思っていた。

Special-Student-7-Rebutter
もしも、"測定たちの他にリアリティ(現実)などない"のであれば、なぜ、私たちは恣意的な測定たちを行なって望む結果たちを得ないのか?存在しないリアリティ(現実)に何の配慮する必要もないだろうし、したがって、任意の恣意的な測定はどんな測定とも遜色ないことになる。

Special-Student-7-Hypothesizer
'正確性'は客観的リアリティ(現実)と測定の間の違いであり、もしも、客観的リアリティ(現実)がないのだったら、正確性などを気にする必要もなくなる、なぜなら、'正確性'などいうものはないことになる、なぜなら、測定が正確性のために比較する対象が無いことになる。

したがって、私たちは、何があろうと'1'を与える測定装置を作り出し、ゴールデン理論、"測定たちは常に'1'である。"を発見するだろう。 ... なぜいけない?私たちのみがリアリティ(現実)を作り出している以上、なぜ、恣意的なリアリティ(現実)を作り出さないのか?

もしくは、いかなる測定もやめれば、リアリティ(現実)は無いことになり、"リアリティ(現実)は無い。"が絶対的に完全な理論になるだろう。

Special-Student-7-Rebutter
太陽はほどなく燃え尽きるだろうし、地球人たちはそれと共に滅びるだろう、それで、哀れな地球人たちが哀れな遠い小さな惑星上で滅びるというだけの理由で、リアリティ(現実)は消滅するのか、測定たちはもう行なわれないと理由で?


8: 悪いモラル上の影響


Special-Student-7-Hypothesizer
実のところ、"測定たちの他にリアリティ(現実)などない。"は、諸悪の根源である。

"私の就任演説に前任者のより多くの人々が来た !"は、"代替の真実"だということになる、なぜなら、その知覚は1つの測定であって、その測定を反駁する客観的リアリティ(現実)などないことになる。

嘘など無いことにになる、なぜなら、その言説の正確性のために比較するべき客観的リアリティ(現実)などないことになる。

したがって、悪党が恣意的に何でも主張することになる、罪に問われることなく。

どこかで聞いたような話?

相対性理論とベルの不等式が"リアリティ(現実)の相対性と不確定性"を証明したと主張する誤解を生むようなYouTubeビデオたちやTV番組たちを悪党たちが引用して、自分たちを正当化し、言う、"それでは、客観的真実はない、すると、私が何を言おうが、誰の言うことにも劣らず真実である。"。

...

そうではなく、私たちに求められているのは、客観的リアリティ(現実)の存在を受け入れて、私たちの現実の主張は何かしら相対的で不確定であると謙虚になり、したがって、他の人たちの主張たちに進んで耳を傾けて私たちの主張を訂正してもっと偏りのないようにすること。

Special-Student-7-Rebutter
相対性理論とベルの不等式は実のところ、それらが適切に理解されれば、私たちが謙虚になる機会なのだが、不適切に理解されて(不適切な宣伝を通して)、絶対的な傲慢をかき立てている。


9: 結論


Special-Student-7-Hypothesizer
結局、良い子たちがこの時点にて自分の心に刻み付ける必要のあることは、リアリティ(現実)と測定たちの間の関係である。

リアリティ(現実)は何らの測定にも独立に存在し、測定たちは相対的で不確定である、その前提無しには、いかなる科学(自然科学だけでなく社会科学も含む)も非科学になるだろう。

Special-Student-7-Rebutter
数学を学ぶ必要などないと主張する多くの人々("なぜなら、数学は彼らの日常生活に役立たない"、と彼らは言う)がいるが、数学を通して最もよく(もしくは、多分、数学を通してのみ)理解される事柄たちがある。


参考資料


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