紙幣が中央銀行にとって負債だということには、私は既に完全に納得している。それがお金の本質だ。お金は借用証書だ。もし、紙幣を印刷することが直接に中央銀行の富を増やすと考えている人がいるならば、はっきり言うが、それは違う。中央銀行が持っている紙幣はただの紙切れでしかない。
そう。それは、不可欠であるが、地球人の間でどうも広く無視されている情報だ。
中央銀行がある実体に1万円の紙幣を借用証書として差し出し、その実体が何らかの資産との交換としてその借用証書を受け入れる時、契約が成立し、中央銀行はその実体に1万円の負債を負うことになる。その紙幣はその契約の証拠であり、契約が成立する前には、その紙幣はただの紙切れでしかない。
実際に、中央銀行のバランスシートでは、公共に渡された紙幣は負債としてカウントされており、これは紙幣の性質を反映している。
だから、お金を印刷することが富を創造すると考えている人がいるならば、繰り返して言うが、それは間違っている。
お金は借用証書だ。借用証書というものはすべて、2つの実体間で契約が成立し、借用証書が貸し手に受け入れられて始めて効力を持つ。誰も何の契約も受け入れないのに、自分で借用証書を書いていても、それはただの習字の練習だ。
紙幣を印刷する行為を絵画を描く行為と比べるのを聞いたことがあるが、それら2つの間には重大な違いがある。ある絵画が低コストで、例えば1万円で描かれ、例えば1億円として評価された場合、その絵画は誰にとってもその価値がある。
その絵画を好まない人がいて、1億円とは評価しないかもしれない。
その人は、たとえ個人的にそれを好まなくても、それが市場で1億円で売れると知れば、喜んでそれを受け取るだろう。
それはそうだ。
他方、借用証書は、誰にでも価値があるというものではない。借り手にとっては、それはただの債務だ。借り手が負債を返済することでその借用証書を取り戻せば、それはただの紙切れになる。
自分が発行した借用証書を持っているのは、資産ではない。ゼロだ。
それは預金通帳の場合も同じだ。それは誰にとっても価値があるというものではない。預金者にとっては価値があるが、銀行にとっては債務だ。他の人にとっては、それは、ただの、面白くない、為にもならない、価値のない本にすぎない。
紙幣も預金も共にお金であり、借用証書としてのお金の本質を共有している。
私が完全には納得しないのは、不換紙幣に対して中央銀行から我々が何を請求できるのかということだ。
不換紙幣が借用証書だということは、その借用証書の受け入れ手が発行者から何かを請求できるということだ。その何かとは何なのか?
我々の以前の議論は満足のいくものではなく、私のもっとよい説明は以下のとおりだ。
商業銀行は、中央銀行から不換紙幣を借用証書として受け入れる。商業銀行は、この紙幣と交換に、中央銀行から諸資産を請求できる。
国債などの資産か?
例えばそうだ。しかし、何でもあり得る。
なるほど。中央銀行は、紙幣と交換に金(ゴールド)を与える保証を停止したが、紙幣と交換に諸資産を与えることを停止してはいない。
しかしながら、金かどうかにかかわらず、借用証書の発行者の義務の遂行において、「保証」という部分が重要だろう?中央銀行は、オンデマンドで交換を受け入れる保証をしていない。
. . . そう、それはそうだ。それが、不換紙幣の特別な性質だ。しかし、中央銀行は、資産を売るつもりがある場合、間違いなく、紙幣を支払いとして受け入れる。つまり、中央銀行は、交換を受け入れないのは、紙幣を認めないからではなく、今は資産を売りたくないからだ。
それでも、中央銀行は何も保証していない。保証するというのが、借用証書の発行者の義務の本質的部分だと思うが?
うーん、たぶん、中央銀行は交換をそのうち受け入れると保証しているのだろう。オンデマンドや定められた期日までではないとしても。
期日のない義務などという概念はまやかしだと言わせてもらおう。永久に果たす必要のない義務などというものは義務ではない。
ふーむ。. . . 実際上は、税金の支払いとして政府が紙幣を受け取ることを保証していることが重要だ。しかし、紙幣は中央銀行からの借用証書であって、政府からではない。借用証書の発行者としての中央銀行の責務の遂行をこの保証が理論的にどう説明するのかを私は知らない。
同感だ。それは重要には違いないが、それが借用証書の発行者としての中央銀行の責務の遂行にどう関係するのか、満足のいく説明に出会ったことがない。
結局、「不換紙幣」というのは、十分に考え抜かれた概念だとは思われない。. . . そのようないかがわしいものを生活の必需品として採用するというのは、地球人に典型的な行為だ。不換紙幣がいかがわしいと私が言うのは、それがただの紙切れだからではなく(借用証書は当然紙切れだ)、借用証書の発行者が、何を返済するのかをはっきりさせないからだ。そんな借用証書がありえるのか?
まあ、 . . . 結局は、受け取り側がそれを借用証書として受け入れるかどうかの問題だ。ただ、それにしても奇怪な現象ではある。
こういうことだろう。「私はあなたに返済することを約束します。」「あなたは私に何を返済するのですか?」「えーと、 . . . 分かりません。」「オーケー。受け入れます。」
. . .
どちらにしろ、商業銀行は、紙幣と引き換えに中央銀行から資産を請求できる。少なくともそのうちに。オンデマンドにではないにしても。しかし、普通の人にとって、不換紙幣は何なのだろうか?
「普通の人」というのどういう意味なのか?天才ではない人か、資本家ではない人か、それとも足フェチではない人か?
銀行ではない人だ。中央銀行と取引しない人だ。企業を含めて。彼らは中央銀行から直接何も請求できないのに、なぜ、不換紙幣は普通の人からありがたがられるのか?それが問題だ。
なるほど。
紙幣は商業銀行間で受け渡され、どの商業銀行にとっても価値がある。
それはそうだろう。
紙幣が普通の人に渡されるとき、普通の人は、中央銀行から直接何も請求できない。中央銀行は彼らと取引しないからだ。しかし、紙幣は商業銀行にとって価値があるから、商業銀行は、喜んで紙幣を受け取るだろう。だから、それを知って、普通の人々は、紙幣を、商業銀行に対して使えるものとして評価し、自分たちの間で取引の媒介として使いはじめる。
それが、紙幣が公共で評価されるようになるメカニズムだろう。つまり、不換紙幣の価値の評価が商業銀行から公共へと伝播したわけだ。
「ただの紙切れである紙幣がなぜ価値を持つのか?」という質問がある。よく聞く答えは、「人々がその価値を信じているから。」といったものだ。しかし、別の答えを与えてみよう。
それは何だ?
紙幣は実際にただの紙切れだ、客観的には。
それは借用証書だ。貸し手には1万円で、借り手にはマイナス1万円だ。全体にとっての正味資産はゼロだ。全体にとっては価値はない。紙切れとして以外は。
それは、紙幣がただの紙切れであるという事実と符号している。
普通の人は、紙幣を中央銀行の観点から見ないので、それが客観的に価値があると考えがちだ。しかし、そうではない。客観的には、紙幣には紙切れ以上の価値はない。